vol.9 - December

ムードとスピリット

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
              ヨハネ3:16


 いよいよクリスマスシーズンがやってきた。どこからか心弾ませるクリスマスソングが耳に響いてくる。ところどころで、カラフルできらびやかなクリスマスデコレーションが目に留まる。町中がクリスマスムードで賑わう。しかし今年も、クリスマススのピリットを知らずに多くの人々がクリスマスを過ごす。
クリスマスという言葉は、ラテン語で「キリストが贈られる」、「贈られた」という意味がある。クリスマスにはプレゼントがつきものだが、私たち一人ひとりに最高の贈り物が与えられていると、神様からのラブレター(聖書)は語っている。イエス・キリストが私たちのために贈られているよ、とやさしく伝えてくれる。
あの汚い、臭い、馬小屋で生まれ、「わたしが来たのは正しい人を招くためでなく、罪人を招くために来た」と言われ、当時の宗教家たちの妬みを買い、十字架につけられ、死なれ葬られ、三日目に私たちのために罪と死に打ち勝ってよみがえられたイエスは、昨日も今日もとこしえに変わることないお方であると、バイブルは訴え続ける。
   手に取るプレゼントは、錆びたり腐ったり、壊れたり、無くなることもある。しかしイエスは「わたしはけっしてあなたを離れず、あなたを捨てない」と愛をもって近づき、励ましてくれる。外側をきれいに着飾る人間の内側の心には、見せられないきたない罪で汚れてしまうものがある。しかし今日も、馬小屋で生まれたイエスは、あなたの心の中に喜んで生まれてくださり、あなたを魅力的な暖かい、本来の人間味ある人として輝かせてくださるのだ。今年のクリスマスこそムードに酔って終わるのではなく、このスピリットを心に受けて、新し人生をスタートしてみてはどうだろう。
メリー・クリスマス!

vol.8 - October

右と左

右にも左にもそれてはならない。             しん言4:27
私は若い頃、格闘技に熱中していた。特に私の場合は、ただ相手と闘うというだけでなく、減量という闘いがあった。カロリーを消費する練習とともにカロリーを減らす食事を心がけるのである。ただし、現在のようにスポーツ科学がそれほど広まっていなかったせいか、多くの選手が、それぞれ、自己の偏った知識や、ひとがやっている方法をまねしたりというような減量のやり方をしていた。私自身もただがむしゃらに練習と減量をしていた結果、体調を崩し、大切なオリンピック予選の試合にまで影響を及ぼしてしまった。
人間は一般的に、偏りやすい性質を持っている。車を運転していても、右にそれていったり左にそれていったりすることがある。世の中を見ても、宗教の世界を見ても、クリスチャンと呼ばれる人たちを見ても、右に偏り、左に偏り、それてしまうことがある。いわゆるバランス、秩序が問われるのである。自分の熱心や確信も大切かもしれないが、そればかりでは一番大切なことを見失うこともある。聖書はそのバランスは「『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです』といわれた、信仰の創始者であり完成者であるイエス・キリストから目を離さないことである」と語っている。この天地を創造し、昼と夜、空と陸、すべての面においてバランス(秩序)を保ってくださる方に焦点をおきたいものである。

vol.7 - September

バイクとバイカー

わたしが来たのは、あなたがたがいのちを得、またそれを豊かにもつためです。 ヨハネ10:10
先日、バイク好きのクリスチャンが長野県野辺山に集まった。バイク・ミッション・The Lord*s Angels初の二泊三日のキャンプであった。バイクの車種も様々で、カワサキのニンジャ、ホンダのスティード、スズキのバルカン、ハーレーダビットソン。オフロードもあればカフェレーサーもあり、ヨーロピアンにアメリカン。エンジンも250ccから1340ccに至るまで。普通、同じタイプのバイク好きのバイカーたちが群がっている中、このバイク・ミッションのバイカーたちの集まりほどユニークなものはなかった。また、一人ひとり異なった仕事をしていて、デザイナーからカイロプラクター、車のメカニック、牧師、土方、トラックの運転手。元レーサー、元暴走族のリーダー兼元ヤクザなど、様々な人生のバックグラウンドをもった人々が集まってすばらしい時を持った。来年は1ヶ月程かけて、路傍伝道や伝道集会をしながらバイクで日本を縦断しようという計画もあり、活動はこれからますます発展していこうとしている。
ところで、こんなにみんなの仕事やバイクの車種や人生の過去が違っていても、集まったメンバーには大きな共通点がある。それはバイクとイエス様が大好きだということ、そしてその大好きなバイク以上にイエス様が愛しているバイカーを、また人々を愛して行きたいという熱い思いである。バイクという乗り物はバイカーという乗り手がいて初めて存在価値がある。人間も人間を創って生かして愛してくれている、心にいのちを吹き込んでくれる魂のライダー、イエス様がいて、初めて人生のツーリングが豊かになる。あなたも心のライダー・イエス様と人生を楽しく魅力的に旅してほしい。

vol.6 - August

日本とアメリカ

わたしがあなたがたを愛したように、 そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。ヨハネ13:34

  私は今、カリフォルニアのサンフランシスコからこのメッセージを書いています。自分という存在を見つめる時に、日本とアメリカこの二つの国を私は無視することはできません。それは私の父がアメリカ人で母が日本人だからです。聖書の中に「互いに愛し合いなさい」という言葉があります。アメリカ人の父と日本人の母が、言葉や文化また、国の違いを乗り越えて互いに愛し合った結果、神の摂理によって私という存在が生まれたように思います。
私たち人間は人生の中で、すぐに憎しみや偏見をもって、争い、傷つけ合ってしまいます。互いに愛し合うことがなかなかできないものです。イエス・キリストは心と思いと知性と力をもって神を愛し、自分を愛するように隣人を愛するという一番大切な聖書の教えを、語るだけではなく、実際に十字架のうえであらわしてくださいました。その姿はまさに「互いに愛し合う」ために必要な本当の愛を見せられるような気がします。 我々が互いに愛し合うことができるようになるために、架け橋となってくださったイエス様のように、私もすべての人々にこの本当の愛を伝えあらわす、架け橋となってゆきたいと心から願います。あなたはどうでしょうか?

vol.5 - July

豊かさと貧しさ

心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです                            マタイ5:3

 日本から飛行機で20時間、距離にして約一万キロ、アフリカ大陸にある国ナイジェリア。日本とのつながりは、サッカーでいつも勝つことができない。その国に約1ヶ月間、車と飛行機で7つの都市を巡回し奉仕することができた。国の印象は?と聞かれると「きたない、くさい、こわい、あぶない」というのが私の正直な思いである。一緒に伝道旅行をしたメンバーは下痢とマラリアの後遺症に悩まされ、暑さと治安の悪さもプラスアルファし、心身ともに削られた気がした。国自体はキリスト教徒とイスラム教徒が約半分ずつ。日本から伝道者が来たのは初めてだそうだ。日本は物質的に豊かな国で、技術面でも世界トップクラスということで一目置かれている。でこぼこの道路で走っている車は10〜20年前の日本車やオートバイが目立つ。物質的に豊かな日本がもたらしている影響がここにも反映している。いつの日か日本がスピリチャルな面において豊かな国となり、今度はイエスキリストの愛のスピリットを世界にもたらしその影響が所々で反映していくことを、物質的には貧しいナイジェリアの国で強く感じさせられた。主がこの終わりの時代に、世界に大きなインパクトをもたらすために、この小さな、霊的に今は貧しい日本を必ず大きく用いてくださると確信させられた。ナイジェリアで精神的肉体的に削られた思いは、私にとって信仰的霊的な面においては研ぎ澄まされたという喜びで満ちている。

vol.4 - June

赦しと悔い改め

心とおもいと知性を力をもって
あなたの隣人ををあなた自身のように愛せよ

「赦せ」といわれると赦せない。「悔い改めろ」といわれると悔い改めたくない。そのような心を持ってしまう人間。いつのまにか憎しみと無関心の高い厚い深いカベが両方の間に立ちはだかる。真実を確信をもって訴える者と、真実を曖昧さをもって隠す者。心の傷の痛みを敏感に深く感じる人と、心の空しさに気づかずに鈍感に生きる人。冒頭の聖句はこのような我ら人間に、とてつもないチャレンジを与えている。隣人とは、謝りたくない謝れない人、赦したくない赦せない人を意味する。自分を愛せない赦せない者が、赦せない人を愛し赦していくことはできない。しかし自分を愛し赦し、隣人を愛し赦す唯一の方法がある。心と思いと知性と力を尽くして主を愛することである。この主は、我らに与えられたとてつもないチャレンジを身をもって十字架の死と復活を通してあらわしてくださったイエス・キリストである。十字架につけろと叫ぶ人々の声、深く手足を貫く釘、鋭く差し込む脇腹への槍、うずく頭にイバラの冠、鞭打たれて血にまみれたぼろぼろの背中。しかし主は「父よ彼らをお赦し下さい」と叫ばれる。心と思いと知性と力を尽くして父なる神を愛する主。心と思いと知性と力を尽くして隣人を愛する主の献身の姿。
人を赦せない、自分の罪を悔い改めない私たちに今、イエスの十字架は何を訴えているのだろうか。

vol.3 - May

恐れと自由

あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする。                         ヨハネ8:32

国は違っても人間の心の中にある問題は同じようである。「人に認めてもらえなくなる恐れ(fear of rejection)」、この恐れに私たちの心の中を支配されていると、私たちは不安になり、生かされているという感動が薄らいでゆくものである。勝負の世界で、負けることを気にしはじめると体が硬直してしまい、守りに入り、悔いの残る結果を招くことがある。社会はいつのまにか人を認める基準として、成功すること、勝利すること、利益を上げることなどの条件をつけてしまっているようだ。そのような価値観が流れる社会でゼンマイ仕掛けのおもちゃのように忙しく動いている人間、いつのまにかそのペースにのせられて動いている私たち。「俺は自由に生きるんだ」と叫び、その自由を限られた時間の中、酒や遊びに追い求めてゆく人々。その叫びもビルの谷間に吸い込まれてゆく。こうして条件付きの社会が作り上げたいのちのない建物のまわりで私たちは生活するようになってしまい、ますます束縛間が高まってゆく。
「わたしはある」(出エジプト3:14)といわれた神はこのような社会に生きている私たちに、イエス・キリストを通して「空の鳥を見よ、野の花を見よ」とやさしく語ってくださっている。神が作ったものは自然の中で自由に魅力的に生き生きと存在感を表している。鳥は種も蒔かないし倉に収めもしない。しかしちゃんと食べて生きている。誰が養っているのか。野の花も偉大なソロモンよりも美しく着飾っている。誰が装っているのか。自由を無くし恐れ心配し条件付きの中で必死に生活している私たちに、イエスは「私の目にははあなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」とあなたを造り生かしてくださっている方は言っている。そしてその愛を十字架の死と復活をとおして表してくださったのである。
人に認められようと努力して必死に生きるか、神に認められ愛されている真理を受け取って自由に生きるか。
あなたはどうする  ?