闇と光

光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。ヨハネ1:5

  今年もクリスマスシーズンを迎えようとしている。ところどころで色鮮やかなデコレーションや、きらびやかなイルミネーションが目にとまる。町中、心はずませるクリスマス到来のリズム&ビートが鳴り響いている。日本中がクリスマスムードのテンションに包まれる。日本のみならず世界各国のクリスマスの過ごし方は様々である。しかし今年こそクリスマスは闇に打ち勝つ光が、この世に、いやあなたに贈られているということを心にとめてほしいと願う。私たち人間は光より闇を愛してしまいやすいところがどうしてもあると聖書は述べている。日常生活の闘いを通して心の中に人に言えない問題の影を抱えて暗くなってしまうこともある。この不況といわれる世の中、事業に失敗し、一生懸命働いて築き上げたものがあっけなく崩れ、倒れ、明日にも希望が持てず一寸先は闇だと敗北感にかられてしまう人もいる。 明日にも希望が持てず一寸先は闇だと敗北感にかられてしまう人もいる。アメリカでは年間で自殺者の最も多い時期がクリスマスのシーズンだと言われている。多くの人々が楽しんでいる中、多くの人々が孤独と寂しさを感じ、「生きる」ことにピリオドを自ら打ってしまうのである。しかしクリスマスの本当の意義は、そのような人生の闇、心の影、生きる限界を感じてしまう私たちに、どんな暗い問題にも打ち勝つ光、あなたに生きる希望と、本来あなたにある魅力的な輝きを取り戻させてくれる真の光イエス・キリストが与えられていることなのだ。イエスはあなたと私のために暗い馬小屋で生まれ、闇に包まれながら十字架にかかり、よみがえってくれたのである。そして今このレターを読んでいるあなたの心の扉をたたいている。空気を呼吸するように心にイエスを迎え入れてみてほしい。世の光があなたとともにいて、あなたを励まし慰め、闇に勝ち続ける輝きを今日から必ず得ることができる。これこそあなたに与えられている本当のクリスマス・プレゼントなのだ。 Merry Christmas!

塩と光

あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である。マタイ5:13,14

神の存在が本当にあるのか、ないのか。そのことをはっきりさせるのは神を信じていると言う人間である。しかしどうして多くの宗教家や信仰者は熱心になればなるほど同じ兄弟としての人間を裁いたり見下したりしてしまうのだろうか。ベストセラーといわれるバイブル−聖書を見ても、律法学者、祭司、パリサイ人のような宗教熱心な人ほど偽善者として描かれている。父親のそばにいて一生懸命働いていた放蕩息子の兄は、この父の愛に気づかず、体験せずにいた故に、放蕩して帰ってきた弟を抱きしめてくちづけし、祝宴までもうける父親を理解できなかった。父の喜びと愛を共有できないその兄の姿を見るとき、なぜか日本のキリスト者の姿が重なってくる。どれだけの愛が、この百年以上の日本のキリスト教の歴史の中で、語られてきたことだろう。しかしどれだけの愛を、神に心から愛されているこの世の人々に、行動によって気づかせてきただろう。「あなたがたは地の塩、世の光」とイエス・キリストは語っている。この自然界を魅力に満ちたものとして創られた主は、我らを神に創られ生かされ愛されている者として、おまえは野の花よりももっと大切だと言ってくれるほど魅力に満ちたものとしてくれたのである。しかし、それに気づいていない人間が教会の中にあまりにも多すぎる。1%弱のクリスチャン人口はその裏付けの一つだと言っても過言ではない。リバイバルとところどころで騒いでいるがそれを叫んでいる一人ひとりが熱心さのゆえに本当の神に造られた人間として、心の内側から湧き出てくる優しさ、暖かさ、美しさ、いわゆる魅力を失っていないだろうか。あなたは味のある、輝きのある者として生かされているのである。イエスキリストの十字架こそその原点に立ち返らせてくれる道なのだ。

日本と韓国

平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。マタイ5:9

最も近い国でありながら最も遠い関係、本来は兄弟のような仲であるはずのこの二つの国は、冷めた心と怒る心が入り交じって深い溝を互いの間に作ってしまったようである。過去の歴史の理解の曖昧さが、冷たい兄弟関係を生み出している。聖書にある人類最初の兄弟、兄のカインは弟のアベルを妬みと憎しみによって殺し、地面に埋めて何事もなかったかのようにふるまっていた。しかし、「覆い隠されているもので明らかにされないものはない」といわれるように、アベルから流れ出た血は地面に深く浸み込んで、叫び声となって神に届いたとある。たとえ黙っていても、人間は神をだますことはできない。人は自分の蒔いた種を刈り取るものである。悪の種を蒔けば、悪の実を刈り取るものである。
今、日本という国に対して多くの日本人が愛国心に欠け、国に対しての誇りが見失われている。それは、潔さに欠け曖昧さに生きる国のしわ寄せが、この世代の国に対するアイデンティティーのなさにつながっているように思える。国にお世話になりながら、良いことだけは受け止め、悪いことは受け止めないと言うわけにはいかない。アダムとエバ以来、罪を人になすりつける習慣は今も変わらない。ネヘミヤが国の再建のために、国の罪を自分の罪であるというアイデンティティーをもって神に悔い改めたように、我々の国が魅力的な祝福を与える国になるためには、国民一人ひとりがもう一度歴史を正しく見つめ、同じ神に造られ生かされ愛されている隣人を、心から愛してきたのかを吟味する必要がある。「憎しみは争いを引き起こし、愛はそむきの罪を覆う」とあるが、イエス・キリストの十字架をとうして、罪人である我々のために和解の道を神が備えてくださったように、和解された者は十字架のもとで謝る大切さと赦す大切さを心にとめたいものである。
 2000年にむかって日韓が共にワールドカップの開催地となったのも、新しい時代に向けての不思議な摂理を感じる。神と世界の人々がこの日韓の関係に注目しているのだ。

悲しみと喜び

悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。マタイ5:4

 人生に悲しみはつきものである。悲しみがわからない奴は人間として未熟である。そういう奴らの中には見せかけの暖かさはあっても、その悲しみを包む隠れた優しさはない。日本のキリスト教のある一部を見る時に、なぜか俺は悲しくなる。愛が語られれば語られるほど、口先だけの愛で、「ウソつけ、このハッタリ野郎」と言いたくなる。なんでもかんでも「ハレルヤ!」で片づけ、なんでもかんでも悪魔のせいにし、てめえの願望を主の御心にすり替えるペテン師たち。「ホラ、神の器だ、主のしもべだ」と神のこともわかっていない周りのコシヌケどもからあおられて、その気になるアホたち。「冗談じゃねえよ。オメエらなめんなよ」と言う奴が出てこないこの世界。地位や名誉や肩書きを求めて、それを盾にしては誇る幼稚な野心家たち。「ほら、あっちの集会、こっちの集会」、「満たされた、恵まれた、癒やされた」と派手は証をする割には地味な生活でその証の効果をちっとも見せない集会オタクたち。日本の百年以上の歴史の中でクリスチャンはいまだに1%弱のままだ。99%の滅びゆく人々を見て悲しむ主の心より、自分だけが喜べれば、楽しければ、安らぎが得られればそれでいいという自己満足の世界を作っているような気がしてならない。十字架を担ぎ、日本が歴史の中で傷つけた韓国を歩きながら、なぜかこんな思いが俺の心の中をよぎっている。「父よ、彼らをお赦しください…」と十字架の上で、俺たちに本当の喜びを与えるために、俺たちの愚かさをあわれんで悲しまれたイエスの祈りを、もう一度おぼえたいものである。
結局、俺たちがこの生涯で最も誇りとできるものはイエス・キリストの十字架以外に何もないのである。

南から北へ

「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」マルコ16:15

バイクにまたがるライダーが、南は沖縄最南端・喜屋武岬から、北は北海道最北端・宗谷岬まで、心のライダー・イエス・キリストを伝えながら約1ヶ月間ひたすら走り抜いた。今まで教会に来なかった人々が、若者が、バイカーたちが、人生の旅をいかに魅力的に生きてゆくことができるかを味わった。毎日の集会はいつもといっていいほど超満員。涙と笑いの超感動で多くの人々が、バイクに乗っても乗らなくても人生に欠かせない大切なものがあることを体験した。

The Lord*s Angelsのメンバーは、元暴走族のリーダー兼元ヤクザ、サモアの元ギャング、元ホストクラブのホスト、元レーサー、トラックのドライバーなど、様々なバックグラウンドの持ち主たちだが、誰がすごいとか、偉いとか、誇る者は一人もいない。みんなイエスにぞっこん惚れている連中なのだ。

このバイク・ミッションの働きに興味を抱いてハーレーでついてきたあるライダーが、南から北へ向う途中でイエスを心に迎え入れた。そして到着した宗谷岬の海で、彼は洗礼を受けた。この旅の最後を、最高の喜びで主は締めくくってくれた。福音をどんなスタイルでも伝えられる喜びを味わわせてくれたイエスに、

「Thank You Jesus!」と言いたい。

小樽から敦賀へ向うフェリーの中で

憎しみと愛

憎しみは争いを引き起こし、愛はそむきの罪をおおう 箴言10:12

何年も前になるが、十字架をかついでで日本列島を端から端まで、多くの人たちとともに150日間かけて歩いたことがある。日本のために祈り、集会を行い、「あなたのために十字架がある」ということをアピールしながら歩いたのだ。その行進の最中、祈っている俺の心に、「アベルの血が叫んでいる」ということばが響いてきた。創世記にあることばだ。アダムとエバによって生まれてきた人類最初の兄弟、その弟アベルが、兄カインの妬みと憎しみによって殺された。地面の中に埋められたアベルの血が、人にはわからないが、すべてを知っている神には叫びとなって聞こえているというのである。なぜこのことばがひびいているのだあろうか、と思いめぐらしていると、「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして神である主愛せよ…そしてあなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という聖書のことばが不思議と心の中に沸き上がってきたのである。神に愛され、また愛しているという縦の関係を持っている人は、隣人である他を神に愛されている愛によって愛してゆくということである。人間は自分を量られている量りでしか人を量ることができないものである。本当の愛を見失っている国が、隣の朝鮮半島の国に歴史の中で大きな傷を負わせてしまった。今の日本があるのも、文化の流れの影響を朝鮮半島から受けているからだ。しかし、その恩を仇で返してしまったのである。韓国では、この歴史の出来事を忘れることなく今の若者に伝え続けている。それとは裏腹に日本では過去のことは水に流そうという姿勢で、そのことを今の世代には伝えず地面の中に深く葬っているのである。このギャップが、一番近い国を遠い関係にしてしまっている。二千年に向かって多くの壁は崩れてきている。ベルリンの壁、旧ソビエトの共産国の壁、これからは日本と朝鮮半島の見えない壁も、また韓国、北朝鮮の壁が崩れる時である。ジェリコの壁を崩した主は、十字架の愛をによって、その壁を悔い改めと赦しを通して、必ず崩して行く。日本の「終戦記念日」、韓国の「独立記念日」を含めた7/15−8/25、釜山から板門店まで韓国人と日本人が、自らの国を代表して十字架の愛によって共に行進することになった。毎日教会で集会をもち、40日間共に祈り、互いに愛し合って主のために和解のメッセージを伝えて行くのである。今、韓国では政治家のクリスチャンがこの計画を通して動き始め、板門店で終わるのではなく、北朝鮮の平壌(ルビで:ピョンヤン)(150キロ北)にまで行進を延長するために動いている。日本と韓国の和解のスピリットが、韓国と北朝鮮の統一に書かせない大切なことに思えてえてならない。

ソウルから成田へ向かう飛行機の中で。

奴と俺

 「人(イエス)がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」 ヨハネ15:13

ハーレー・ダビットソンを囲んで、二人のアウトロー姿のバイカーがポーズをとっている。左が俺。右が俺の友ヤツである。時々、あまりにも仲がいいので、ホモと間違えられることもある。牧師と伝道者のホモ、これは話題になるかもしれない。しかし俺たちはそのようなスタイルにハマッてはいない。俺の人生の中で友のように振る舞う奴らはいっぱいいたが、てめェの野心や願望という計算で付き合ってきては離れるという奴らも多かった。それはそれで俺という人間が磨きをかけられたということで大切だったと思う。しかしそいつらは俺の友ではない。俺はまだ、そこまで心が広くはない。まだまだ人間ができてない。でも、今の俺を正直に見つめて受け止めない限り、俺は自分に嘘をつき、偽善者のように振る舞うことになってしまう。俺は偽善者にだけはなりたくない。

しかしこんな俺を「アーサー、おまえはいい奴だ。おまえがいたから俺は牧師をやめなかった」と言ってくれる変わった友がいる。それが奴だ。金儲けの話をして夢を語る人は世の中には多い。しかし金がないのに借金しても夢を実現してゆく人がいる。それが俺の友、奴だ。てめェの得のために付き合ってくる奴らはいっぱいいる。しかしてめェが損をしても付き合ってくる奴は俺の人生には今までいなかった。それが俺の友、奴だ。自分の凄さを派手なハッタリで語る人々がいる中、自分の凄さを地味な生き様で現す人がいた。それが俺の友、奴だ。C型肝炎を患い、ベッドでじっと休むより、ハーレーに跨り、微笑みをうかべながら白い入れ歯を輝かせる俺の友。そして俺は奴の中に聖書に出てくるイエスを見た。イエスを感じた。イエスに触れられた。俺は奴を通してイエスにもっと惚れた。短い人生の中で本当の友を俺は得ることができた。奴とイエス・キリスト。俺の一生の宝だ。

裁きと赦し

「罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」ヨハネ8:7

                アメリカでの旅行中、最もニュースになっていたのが大統領のスキャンダル。事実解明に、報道の嵐、評論家の批評に国民の声、そして大統領のコメント。罪を認めさせようとする働きに、裁きを下そうとする動き、引き摺り下ろそうとする力に、かわそうとする振る舞い。真実が明らかにされる前に結論に走る人、裁きをする人、仕事さえやってくれれば私生活はどうでもいいと言う人。真実は主のみが知っている。「人の心は永遠の深さがある」と聖書にあるが、その深さを我々が知る余地はない。いつのまにかテレビを通して報道の渦の中に巻き込まれて自分を忘れる私たち。

そのような中、カーラー・タッカーという殺人者の死刑が執行された。刑務所の中でクリスチャンになった彼女。しかし法の裁きは当然といわれる死刑。彼女があまりにも変わったので減刑を求める運動も起こったが、法を曲げてはならないという動きもあり、結局、テキサスでは100年ぶりの女性の死刑が決定した。死刑執行の前に、自分の行った殺人の罪に対して彼女は被害者の遺族に謝罪し、そして十字架の死と復活によって罪を贖ってくれたイエス様のもとに行く期待を口にして彼女はこの世を去った。死刑が行われた後、残念だと悲しむ人々と、当然の報いと叫び喜びの声を上げる人々。

 アリゾナ、グランド・キャニオン、カリフォルニアと、車やバイクを走らせながら神が作った自然界の美しさ凄さを感じながら、人間の罪深さ、愛の無さを考えさせられた旅行であった。「罪のない者から石を投げなさい」と、裁きを下そうとする人々に語られたイエス様の言葉がなぜか心に響く。私たちは、また自分は、どれだけの石を人々に投げてきたことだろう?


あるとない

わたしはあることを信じなければ、
あなたがたは自分の罪のうちに死ぬのです。ヨハネ8:24

人間には「人に認められたい」という認知飢餓というものがあると多くの心理学者が述べています。人は自分の存在を無視されたくないのです。自分という存在には価値があることを周りの人々に受けとめてほしいのです。確かに「人は外側を見、神は心の内側を見る」と聖書の言葉にあるように、見える周りの人々の意見や目を気にしながら生活している人々が多いようです。聖書のいう神とは、人間が作った形だけのいのちのない神々ではなく、私たち一人一人を神のイメージに形どって創造し息吹を吹き込んで生ける者とし、「わたしとあなた」という愛の関係をもって、いのちの豊かさを満喫できるようにしてくださった、創造主なる方です。いわゆる私たちのアイデンテティーの源なのです。この方は「わたしはある(I am)」と言われます。いうなれば存在そのものなのです。この方は「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と無条件に私たちを受け止めてくれます。聖書の中に出てくる罪とは、まさに「わたしはある」といわれる方から離れて生 きることを指しています。「わたしはある」という方から離れるから「私はない」になってしまうのです。「私はない」とう状態は不安をもたらします。だから 「ある者」になろうと努力し、人の目を気にして、恐れながらある時はびくびくしながら、条件付きの社会で疲れてしまうのです。「わたしはある」という方と、 「わたしとあなた」という関係に立ち返るなら、「私もある」と言えるしっかりした土台を心に据えることになります。そのような人間は必ず、創造主なる神が 造った野の花以上にカラフルで魅力的ないのちを、この条件付きの社会の中で無条件に醸しだしてゆく者となるのです。聖書の言う悔い改めとは、今の自分を見 つめ、元に戻ることです。イエスはその道を十字架をとおして切り開いてくれたのです。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」

あなたはある、それともない。どちらでしょうか?


愛のある者と愛のない者

愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。Tヨハネ4:8

新しい年を迎える。それは世の終わりにまた近づくということでもある。聖書は、世の終わりが近づくにつれて、世の愛が冷えてゆくとある。

教会とは、キリストのからだである。花婿なるキリストをかしらとする花嫁クリスチャン一人ひとりこそ教会なのである。クリスチャンとはキリストにある者、花婿と花嫁が交わりによって一つになることを意味する。その関係は愛によって結ばれるのである。

人が望むのは変わらない愛とあるが、それとはうらはらに私たちの社会に流れる愛は変わりやすい。しかし、空気が世界のすべての国々の人々に与えられているように、神の愛はすべての人々の注がれている。「神は実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」とあるように、イエス・キリストの十字架の贖いこそは、永遠の愛で私たちを愛しているという言葉だけではない、実践の愛である。愛はどこでもよく語られるが、言葉だけの愛は冷えてゆく。行動がともなう愛は人を生かしてゆく。神は行動をもって私たちを愛し続けてくださる。神の愛を得ているはずの私たちは、教会の中で、また外で、互いの人々との関係はどうだろうか。帰ってきた放蕩息子に対して近づいて抱きしめる父親の愛と、その父のそばで共に生活し仕えていた放蕩息子の兄の、妬む批判的で悲観的な姿を思う時に、日本の教会、クリスチャン、この私はどうだろうと考えさせられる。愛のある者なのか、愛のない者なのか、もう一度、私たち自身が放蕩息子であった、あるのだという原点からスタートしてみてはどうだろうか。

1997年分のメッセージはこちら。